西用寺は江戸時代にはおそらく集落(郷中)の北のはしにあったと思われます。戦後しばらくは寺域のまわりに繊維工場や畑が点在していました。現在は住宅が多く建っています。今の境内地はおよそ一千坪、半分以上は駐車場です。細い道路をはさんでその南北両側が駐車場となっています。
本堂の西側および北側に合わせて60基ほどの墓地区画があります。昭和初期までは墓地は塀の外にあり小さな墓石が立ち並んでいました。そのころはお寺の墓地は参り墓といい、いわゆる埋め墓ではなく文字通りお参りするための墓で戒名は彫られていますが、納骨するためのものではありませんでした。経費の点からいっても写真のような小さな墓石で事足りたと思われます。
上の写真は西之口の共同墓地の入り口付近です。私が小学生のころは、もっと空き地が広く車が3,4台止まれるほどの草っ原がありました。今思えばその草っ原こそが葬儀式場だったのです。故人の家から行列を組んで運ばれてきた棺桶は、空き地の中央やや奥に据えられている蓮の実(花)をかたどった大きな石の上に置かれます。その周りには行列とともに運ばれてきた造り物の花や道具が並べられ、多くの村人の見守る中で葬儀のお勤めがはじまったはずです。葬儀は村内の大イベントでありハレの代表的行事でした。私はこの共同墓地での葬儀に参加したことはもちろん見たこともありません。平日は学校へ行き休日は家の近くで遊んでいたためです。村の高齢の方の回想では昭和30年頃までは時にはこうした葬儀が行われたようです。
共同墓地で葬儀を終えた棺桶は、墓地に掘った穴の中へ葬られました。そこには墓標を建てるかちょっとした石をしるしに置く程度でした。火葬が一般化してくる戦後になって納骨の機能をもつ写真のような大型の墓石が村の共同墓地でも寺の墓地でもできはじめ昭和後期以降はかつての参り墓はほとんど見かけないようになりました。しかし、古くからの共同墓地には今でも、かつて棺桶をのせた名残の大きな蓮型の石が残っている所があります。
寺の墓地の一角に永代供養共同墓地があります。時代の流れの中でもう自分の所には墓が必要なくなった、墓を建てても面倒を見る人が続くかどうかが心配だ、という人が出てきました。そういう方々の納骨の場所として平成23年に共同墓を造りました。何人かの人のお骨が入っていますが、寺からみて残念に思うのは、共同墓へ納骨した後にお参りする人を見かけないことです。共同墓とはいえそれぞれの方のお墓です。お骨の捨て場所ではありません。時節時節には是非ともお参りをしていただきたいと願っています。
墓地の奥まったところに歴代住持の墓石が並んでいます。昔は本堂の真後ろに場所をとってコの字型に並べてあり、どの墓石に対しても正面からお参りすることができましたが、今はまとめてしまったので全ての墓石に一度でお参りできます。戦後になって寺族の墓を村の共同墓地に造りましたが、寺の墓地を移動したときに住持と寺族の墓を一緒にしました。