甘露院最後の日 平成29年1月8日、仏様の閉眼供養(お精抜き)をしました。檀家の皆さんにお参りをしていただき、甘露院との別れを惜しみました。思えばこの本堂は文政3年(1820)に建立された庫裡も兼ねた建物で、あと3年で築200年を数えるところでした。
閉眼供養のあと仏様は中央のご本尊様と両祖大師像(この写真では蓮の花や葉に隠れてよく見えませんが頭部に丸い輪がついています。善導大師と法然上人のお二人)はきれいに修復をして西用寺延命地蔵堂に安置してあります。機会があったら是非お参り下さい。ご本尊様の阿弥陀像両側の観音・勢至両像は三河のお寺にもらわれていきました。
本堂内部のこの景色は檀家だった皆さんの記憶に今でも残っていることと思います。もちろん私明空昭稔にとっては50年間慣れ親しんだ場所であり、堂宇内のすべての所が今もって克明に脳裏にきざみこまれています。
堂宇と土塀・山門との間にあったささやかなお庭です。私がいた間この景色はあまり変わることなく続きました。門の外に建っている鉄筋の大きな建物は大野保育園です。園児たちのにぎやかな声がよく聞こえてきたものです。私の子供3人もこの保育園にお世話になりました。送り迎えの必要もない隣でずいぶん助かりました。少子化という時代の波にはあらがえずこの写真をとった平成28年には、すでにこの大野保育園は三和西保育園に併合され廃園となっていました。かつての賑やかだった大野町を知る人にとっては、園児のいないひとけもない旧保育園はなんともいえないわびしさを感じさせるものだったと思います。
昭和50年に本堂の裏に建て増ししました。二階建てで上は居住部分、下は座敷です。
庫裡の上がり口からみた本堂外陣のほうです。この二つの写真は、解体される直前でガラーンとしている建物内部です。
堂宇の解体は平成29年2月半ばに始まり、十日間ほどで更地になりました。甘露院があったしるしにと、松の木1本だけを残してもらいましたが環境の激変に耐えきれなかったのか、暫くしてこの松の木も枯れてしまいました。
甘露院にあった棟札の表と裏です。63×15㎝の大きさの板に、奉再建甘露院坊舎一宇(かんろいんぼうしゃいちうをさいこんしたてまつる)と中央に書かれて、その周りに 維持文政三庚辰六月吉祥日 廿一世現空湛光代 願主惣檀方中 と記されています。板の下部に建築に携わった大工達の名前が 棟梁江本甚六 脇棟梁片山栄八 あとは名前だけで 文吉 和助 友八 伝吉 仲三郎 太助 木挽半蔵 と読めます。裏側には 正一位秋葉大権現鎮火防守護所 と書いてあります。
この棟札から甘露院が1820年に再建され、当寺の住職が湛光上人であったことがわかります。因みに私明空昭稔はこの文政三年から二回り後の同じ庚辰(かのえたつ)の生まれです。
上下53㎝もある大きな位牌です。表は 法界万霊同證解脱 裏は 宝永四丁亥天十月晦日 とあります。表側の一番上の梵字は阿弥陀仏をあらわしています。私が甘露院に関係していた五十年間で見つけた年代の明らかな仏具什物のなかで最も古い物です。本尊様はもっと古いものかとも思いますが私にはよく分かりません。この位牌はいつも本堂内に置いてあり、年に一度盆施餓鬼の時に使っていました。外陣中央に置いた施餓鬼棚に向かって、檀家の方に順に焼香をしてもらいましたですね。その時、それぞれの家の戒名あるいは先祖代々と書いた塔婆が立っていたはず、その塔婆立てに使っていました。宝永四年(1707)以来三百年間以上檀家各位の合掌・焼香を受けてきた存在です。先ほどの棟札とともにこの位牌も西用寺に持ってきてあります。
私明空昭稔が、甘露院に入ったのは昭和41年のことです。この年2月には先代の庵主さん(松井さん)が亡くなられました。当時の甘露院総代さん一同の度重なる勧めで庵主さんの後を継ぐ形で、住職に入りました。すでに就職していて住職としての実務経験はない状態で大変不安ではありました。檀家さんは親切で合計20軒あまりで寺役も少なく、それほど困ることもなく日々が過ぎていきました。最初の昭和41年、年行司は早川勇吉、早川八重子のお二人でいろんな事を教えてもらいました。今でも感謝しております。
甘露院で気になったのは家が南の方へ傾いていたことです。太平洋戦争末期におきた大地震で傾いたのかと考えましたが、昔を知っている近所の方がいうには、いや、戦争前から甘露院はもう傾いていたとのことです。それ以前の大地震は、遡っていくと1854(嘉永7年11月)年の安政東海地震になります。この地震の直後、甘露院の本寺である東龍寺からは、7つの塔頭寺院と東龍寺分も含めての被害状況が藩の寺社奉行へ報告されています。土塀が崩れたとか、瓦が落ちたとか、建物の半壊とか色々被害が出たようです。この大地震で傾いたとするとなんとその後150年以上持ちこたえた事になります。
甘露院に住んで二,三年、堂宇の補強について業者の方に相談しました。そして前面(南側)から二カ所に鉄骨のつっかい棒をかってもらいました。補強工事をしてくれた業者の「おっさん、これで大丈夫と思ってはだめだよ。地震がおきたらすぐ逃げなあかんよ」という言葉は印象的でした。
時が移って平成5年総代さん達の発意で、堂宇の瓦葺き替えをやっていただけることになりました。瓦だけでなく痛んでいた屋根板の部分も取り替えました。連日作業を手伝って下さった総代さん始め檀家の方にはお世話になりました。
屋根は新品になり見違えるほど立派になりました。
入り口の門と土塀もすべてかわらを替えて新しくなりました。当時庭には門被りの八重桜?があり、新調なった門に映えました。
庫裡の土間に入った所の壁に貼りだしてあった「屋根修復工事の寄付者名簿」です。檀家さんのみならず随分多くの方々の援助を受けたことが分かります。